今日は20世紀後半において最も偉大なピアニストの一人であるウラディミール・アシュケナージについて紹介します。
彼もまたアルゲリッチやポリーニと同じようにショパン国際ピアノコンクールを経て世界的なピアニストへと上り詰めた一人。
さらに途中から指揮者としてのキャリアも積み、ピアノと指揮という2つの異なる分野で活躍した万能型の音楽家でもあります。
今回はウラディミール・アシュケナージの経歴、特徴、おすすめ演奏動画、おすすめCDについて見ていくことにいたしましょう。
目次
ウラディミール・アシュケナージの経歴
ウラディミール・アシュケナージは1937年7月6日にロシアのゴーリキー(今でいうノブゴロドのあたり)で生まれました。
彼の父もまた音楽家でソヴィエト連邦から勲章を授与されるなど、相当な腕前の持ち主であったようです。
6歳でピアノを始めると、8歳で演奏会デビューを果たします。
ピアノと出会ったのは比較的遅いですが、かなりのスピードで上達したのだろうということが伺えます。
その後モスクワ音楽院付属中央音楽学校に入学して、アナイダ・スンバティアンという人物に師事するようになります。
ここは世界3大音楽院の一つでスクリャービンやラフマニノフもアシュケナージの先輩にあたります。
ちなみにアシュケナージは何でも簡単に弾きこなしてしまうタイプの子供だったようで、とあるインタビューではこの先生に学んだことはほとんどない、とぶっちゃけてしまっているそうです。
1955年、18歳のアシュケナージはショパン国際ピアノコンクールに出場します。1960年にポリーニ、1965年にアルゲリッチが優勝していますが、この2人の前の大会に出場したわけですね。
そして結果は2位。十分に立派な結果なのですが、この結果が議論を呼ぶこととなります。
アシュケナージの演奏は十分に優勝にふさわしいものであったと考えるアルトゥーロ・ベネデッティ・ミケランジェリは審査員を辞退するという事態に発展しました。
この時優勝したのは地元ポーランドの新星アダム・ハラシェビッチで、審査員にもポーランドの人が多かったことから、贔屓されたのではないかという見方もあるようで。
そんな一悶着あったショパンコンクールですが、この翌年にはエリザベート王妃国際音楽コンクールにも出場し、ここでは見事優勝を果たしています。
この頃はまだモスクワ音楽院の学生という立場ではありましたが、この優勝を機にアシュケナージは世界中を演奏旅行し、レコーディングも行うようになります。
そして、1960年に無事モスクワ音楽院を卒業し、プライベートではアイスランド人女性と結婚します。公私ともにまさに幸せの絶頂といったところでしょうか。
さらに1962年にはチャイコフスキー国際ピアノコンクールにも出場。ジョン・オグドンというイングランド出身の超絶技巧ピアニストと同率で1位を獲得します。
ちなみに、ショパン国際、エリザベート王妃国際、チャイコフスキー国際の3つのコンクールは世界3大コンクールと呼ばれています。
アシュケナージはこの世界3大コンクールの全てで入賞を果たしている稀有な存在です。
ちなみに最近ですと、同じロシアのドミトリー・シシキンも、
ショパン国際ピアノコンクール(2015):第6位
エリザベート国際ピアノコンクール(2016):ファイナリスト
チャイコフスキー国際ピアノコンクール(2019):第2位
といったようにこの3つのコンクールで入賞を果たしています。流石にアシュケナージには及びませんけれども。
ドミトリー・シシキンについての詳細はこちらをご覧ください。
チャイコフスキー国際ピアノコンクールで優勝した翌年の1963年、アシュケナージはソ連を出てロンドンへと移住します。
アシュケナージはインタビュー等を見る限り、どうもソ連の政治情勢に関して好ましく思っていなかったようです。
そういった経緯もあって出国を決意したのではないかと思われます。また、1968年には妻の祖国アイスランドに移住し、1972年にはアイスランド国籍も取得します。
ただ、ソ連はこのことを快く思わなかったようで、これまでのアシュケナージの国内における功績を全て記録から抹消してしまったそうです。おそロシア。
また、1970年代となり40歳を過ぎたアシュケナージは指揮者としての活動も始めます。
ロンドン交響楽団、フィルハーモニア管弦楽団、ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団、クリーヴランド管弦楽団、ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団、ベルリン・ドイツ交響楽団、チェコ・フィルハーモニー管弦楽団、NHK交響楽団、シドニー交響楽団、EUユース管弦楽団……
と、膨大な数のオーケストラとの共演を果たしており、音楽監督や首席指揮者を数多く務めています。
1987年、ソ連も徐々に崩壊へと近づいている頃には、ロイヤル・フィルを引き連れて祖国ロシアへの凱旋も果たしています。
そのほか、最近では後進の育成にも関わっていて、2010年からは洗足学園大学の指揮科の名誉客員教授も務めています。と言っても年1ペースくらいでしかやってこないそうですが……。
ウラディミール・アシュケナージの特徴
難しいパッセージをものともしない小さな手
ウラディミール・アシュケナージは手が小さいピアニストの代表とされています。(あくまで男性にしては、ということなのでしょうけれども。)
その大きさは8度か9度のいずれかであると言われているようですが、どうやら10度和音を掴むことができないのは確かであるようです。
実際、ラフマニノフの作品に頻出する10度和音は全てグリッサンドor前打音で回避しているようなので。(あの有名なピアノ協奏曲第2番の冒頭も然り。)
偉大なピアニストというとなんだかんだ10度以上は届く手を持っている人が多いものですが、別に手が小さいからといって何も悲観することはない、と教えてくれるのがアシュケナージなのです。
小さな手にも関わらず、ラフマニノフの作品はほぼ全て録音しているのは見事としか言いようがありません。
子供も音楽家として活躍
アシュケナージは先ほど書いたように父も音楽家でありましたが、彼の子供もまた音楽家として活動しています。
やはり音楽家の血は受け継がれていくものなのでしょうか。
ヴォフカ(長男)
まず長男のヴォフカですが、父と同様にピアニストとして活動しています。父のウラディミールとともに室内楽作品のツアーで共演するなどしています。
さらにウラディミール・その妻・ヴォフカのアシュケナージ一家でラフマニノフの6手のためのピアノ連弾作品を演奏したことも。
2009年には父ウラディミールとラヴェルとドビュッシーの2台ピアノのための作品の録音を行なっています。
現在ではピアノの指導者としての活動が多く、ヨーロッパ各地でマスタークラスを行うなどしているようです。
ディミトリ(次男)
次に次男のディミトリですが、彼はクラリネット奏者として活躍しています。ヴラディミールとはオーケストラで共演を果たしており、2007年にはピアノとクラリネットのための作品を録音しています。
レパートリー
アシュケナージといえば、ショパンとラフマニノフの作品が彼の十八番であると言えるでしょう。
この二人の作曲家の作品に関しては、協奏曲を含め主要な作品はほぼ全てを録音しています。
加えてベートーヴェンとスクリャービンに関しても、ピアノソナタ全集を残しています。
他にもバッハやシューマン、ロシアものの作品を多数残しています。
この世に存在するクラシック音楽作品のほとんどを網羅しているのではないか、と思うほど幅広いレパートリーの持ち主です。
おそらく後にも先にもアシュケナージほど幅広いレパートリーを持ったピアニストは存在しないのではないでしょうか。
日本にも精通
アシュケナージは2010年から洗足学園大学の特任教授として教鞭を取っていることもあり、日本の文化には大変詳しいようです。
ロシアの自宅にも和室を備えた部屋があるそうです。
アルゲリッチ、ポリーニもまた大の日本好きでしたが、日本の文化というのは不思議とピアニストを惹きつけるものがあるということなのでしょうか。
ウラディミール・アシュケナージのおすすめ演奏動画
ウラディミール・アシュケナージのおすすめ演奏動画を紹介していきます。
練習曲Op.10-1(ショパン)
ショパンの練習曲の幕開けを告げるこの曲。
世の中には手が大きくないと演奏困難であると言う人もいれば、手が小さくても手首を柔らかくすれば弾けるんだと言う人もいます。
おそらくそのどちらも一理あるのではないかと思うわけですが。
先ほども申し上げた通り、アシュケナージは比較的手の小さな部類のピアニストな訳ですが、どうでしょうか。
笑みを浮かべつつ、ノリノリで弾いてしまっています。この演奏こそが全ての答えなのではないでしょうか。(流石に中間部はやや苦しそうですけれども。)
おそらくアシュケナージの手の大きさを考えると、全ての音を指でレガートに演奏するのは困難であろうと思われます。
アシュケナージは一つ一つの音をやや切り気味に打鍵しつつ、それをペダルでうまく繋げる、といった方法で切り抜けているようです。
ピアノソナタ30番 Op.109(ベートーヴェン)
こちらベートーヴェンの後期ソナタの傑作の一つ。3楽章終盤のロングトリルが奏者を悩ませることでも知られています。
この曲は古典派にカテゴライズされますが、ロマン派の時代を予感させる作品であるとも言われています。
技術面でも表現面でも難曲とされるこの曲を、アシュケナージは見事に弾ききっています。
2楽章の鋭い強音は、同じロシアの後輩キーシンにも通ずるものを感じます。
1,3楽章のロマンティシズム溢れる表現もさすが。やはりアシュケナージはロマン派系の音楽が一番マッチしているような気がしますね。
音の絵 Op.39(ラフマニノフ)
こちらラフマニノフの練習曲「音の絵」の演奏です。
作曲家というのは時期によって作風が変わっていくことが多いですが、ラフマニノフもまたご多分に洩れず。
かの有名なピアノ協奏曲第2番のイメージが強い方には、やや難解に思えるかもしれません。
実際、技術面、表現面のいずれにおいても高いものを要求されるのが、この「音の絵」なのですが、アシュケナージは見事に弾ききっていますね。
もともとラフマニノフはそれぞれの曲に明確なイメージを持って作曲していましたが、それがどのようなイメージであったのかは一部の親しい友人にしか明かしていません。(リークされてしまったものもあるのですが。)
何をイメージして演奏するかは奏者に一任されているというわけですね。
あなたはこのアシュケナージの演奏にどのような情景を思い浮かべるでしょうか。
ウラディミール・アシュケナージのおすすめCD
アシュケナージはあまりに録音が多く、どれをおすすめすべきなのか悩ましいのですが、頑張ってご紹介していきます。
ショパン 練習曲集
ショパンの練習曲集といえばポリーニの録音が最強、といったイメージかもしれませんが、アシュケナージだって負けておりません。
ポリーニに比べると表現面がより豊かな演奏であるように感じられます。
ポリーニの録音と聴き比べてみるのも面白いかもしれませんね。
例えば、難曲として知られるOp.25-6(三度和音の練習曲)に関しては、メカニックの面でもアシュケナージの演奏が上回っているのではないかと思ったり。
アシュケナージはもとよりテクニック面では相当に高いものを持っていますが、とりわけ重音の処理に関しては特意としているようです。
バッハ フランス組曲集
こちら2017年、アシュケナージが80歳の時に録音されたアルバムです。
アシュケナージはもともとバッハを弾くことをためらっていた節があるようで、20歳の時に1曲だけ録音して以降、2004年までバッハを録音することはありませんでした。
本人はその理由を「グレン・グールドの演奏に勝ることはできないからだ。」と述べて煙に巻いていましたが、実際のところなぜなのかは明かしていません。
しかしながら、彼がバッハという作曲家に何か特別な感情を抱いていたのではないか、ということは伺えます。80歳という人生の一つの節目にバッハを選んだことも偶然とは思えません。
高齢ということで、全盛期に比べると技巧面ではやや苦しいところはあるものの、ペダルを使い過ぎず、この曲の「素」を引き出すことに集中しているかのよう。
一つ一つの声部の処理もさすが経験豊富な演奏家らしい明晰さが感じられます。
グールドとはまた違った趣が感じられるバッハです。
ラフマニノフ全集
こちらアシュケナージが打ち立てた一つの金字塔とでも言うべきアルバムです。
というのも、ラフマニノフのピアノ作品を全て録音をした大御所音楽家というのはおそらくアシュケナージをおいて他にいないからです。
アシュケナージもインタビューで度々ラフマニノフについて触れていますので、おそらく彼にとって特別な作曲家なのであろうということが伺えます。
ちなみにラフマニノフは編曲の天才でもあり、ショパンやパガニーニ、コレルリ、クライスラーといった名作曲家のアレンジ作品をいくつか残しています。
おそらく「パガニーニの主題による狂詩曲」がその中で最も有名でしょう。
こういった変わり種の曲まできちんと収録されていますので、ラフマニノフのそういった一面に触れることができる、という意味でも特別なアルバムです。
ウラディミール・アシュケナージ、引退す

2020年1月17日、アシュケナージはついに全ての音楽活動から引退することを表明しました。
近年ではピアニストとしての公開演奏は控え、指揮者としての活動が中心でしたが、ついにこの時がきてしまったか、といった気持ちです。
グラモフォンから出た公式アナウンス(英語)がこちら。
https://www.gramophone.co.uk/classical-music-news/article/vladimir-ashkenazy-announces-retirement
いやもう、本当にお疲れ様でした。
一切の演奏活動から引退するとのことですが、音楽界からは完全に離れ老後を楽しむのか、それとも指導者など裏方としてひっそりと活動を続けるのか、果たしてどうなるのでしょうね。
おわりに

さて、今回はウラディミール・アシュケナージについて見てきましたが、いかがでしたでしょうか。
アシュケナージほど多くの録音を残し、後世のピアニストに影響を与えたピアニストはそう多くはいないのではないでしょうか。
もう奏者として彼を見ることは叶わなくなってしまいましたが、彼の残した録音、映像は不滅です。
音楽を学ぶ一個人としても、本当に感謝しかありません。
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