20世紀を代表するピアニストは誰か?と問われれば、人によって答えは様々でしょう。アルゲリッチ、ポリーニ、グルダ……などなど。
そして、必ずや名前が挙がるであろうピアニストの一人がスヴャトスラフ・リヒテルでしょう。
ロシア人らしいがっしりとした体躯を活かしたパワフルな技巧で一世を風靡したピアニストとして、現代もなお彼を崇め奉る音楽家は少なくありません。
今日はそんなスヴャトスラフ・リヒテルの経歴、特徴、おすすめ演奏動画、おすすめCDについてご紹介していくことにします。
目次
スヴャトスラフ・リヒテルの経歴
20世紀を代表するピアニストのリヒテルですが、当時の穏やかでない政治状況によってなかなか苦労の多い人生を送った音楽家でもあります。一体何があったのでしょうか。
音楽家の父の影響
スヴャトスラフ・リヒテルは1915年3月20日に旧ソヴィエト連邦のジトーミルという場所で生まれました。現在ではウクライナの領地になっている場所なんだそうです。
父のテオフィルはドイツ人ピアニスト、母はロシア系商人の娘ということで西欧と東欧のハーフとして生まれたことになります。
父はルター派を信仰していることもあり、聖パウロ教会で合唱団長やオルガン奏者を務め、なおかつ音楽学校の教師としても活動していた人物だったそうです。
当然の成り行きと言いましょうか、リヒテルも3歳になった頃から父にピアノを習うようになります。
「息子を世界に羽ばたく音楽家に!」という訳では別になかったようですが、息子の音楽教育には大変熱心であったようです。
しかしながら当時のソ連は戦争の真っ只中。1941年、テオフィルはスターリンによって粛清されてしまいます。国籍が災いしたのか、ドイツ軍のスパイだと思われてしまったそうです。
これを受けて母親は別の男性と結婚して亡命。事実上家族はバラバラとなってしまいました。
モスクワ音楽院にて
事実上全ての家族を失ってしまったリヒテルはオデッサ歌劇場のコレペティートル(オペラ歌手やダンサーの練習のためにピアノで伴奏をする仕事)を務めたり、19歳の時には初リサイタルを開いたりと、緩やかにピアニストへの道を歩んでいきます。
1937年にはモスクワ音楽院に入学し、ロシアピアニズムを語る上では欠かすことのできない名ピアノ教師、ゲンリフ・ネイガウスに師事しました。
ところで当時のネイガウス門下ではリヒテルの他にもう一人、腕利きのピアニストがいました。それがエミール・ギレリス。完璧なテクニックと強靭な打鍵が特徴で、「鋼鉄のタッチ」とも言われていました。
モスクワ音楽院の先輩であるラフマニノフとスクリャービンのように対抗心むき出しのライバル関係という程ではなかったようですが、切磋琢磨していたようです。
実際、二人とも20世紀を代表するピアニストとなったのですから、ネイガウスも指導者冥利につきるといったところでしょうか。
「幻のピアニスト」と言われて
その後はソ連国内で演奏活動を盛んに行なうようになり、彼の実力というのは次第にロシア中が認めるものとなっていき、1945年には全ソ連音楽コンクールピアノ部門にて第1位を受賞しています。
その一方でソ連政府からは反社会的だとみなされ、常に監視の目を受けながらの活動を余儀なくされていたそうです。
しかしながら1950年には初めてソ連以外の東欧の国へと赴いてコンサートを行い、その評判は瞬く間に西欧諸国へと広まることとなります。
しかしながら、時は冷戦の真っ只中。その評判こそ伝わっていても、西欧諸国で演奏活動を行なうことはなかなか許可されませんでした。
殺された父親はスパイ扱い、母親はドイツへと亡命、とあってリヒテルに西欧諸国への渡航を許可した場合、逃亡の恐れがあるのではないかと考えられていたようです。
一方かのギレリスというと、この頃から世界中で演奏活動することを認められており、「幻のピアニスト」リヒテルの宣伝もしていたのだとか。ギレリス、優しいですね。
1959年にはグラモフォンと提携してラフマニノフのピアノ協奏曲第2番の録音が行われ、現在でも普及の名盤として世に知られています。
ついに世界へ
ソ連政府によって活動が制限されたリヒテルがようやく東欧以外での演奏を許可されたのが1960年。フィンランドのヘルシンキやオーストリアのウィーン、アメリカ各地で演奏を行いました。
こうしてリヒテルはついに「幻のピアニスト」から「伝説のピアニスト」へと上り詰めることができた訳ですね。
晩年には流石に技術の衰えも見られましたが、1997年に生涯を閉じるまで、膨大な録音活動・演奏活動を行い、20世紀を代表するピアニストとして活躍を続けました。
スヴャトスラフ・リヒテルの特徴
圧倒的な技巧や親日エピソードで知られるリヒテルについて、さらに詳しく見ていきましょう。
名教師すらお手上げの実力
モスクワ音楽院時代の師匠ネイガウスはロシアの音楽界に大きな足跡を残した名ピアニスト&名教師として有名です。現在でも「ネイガウス流」なる奏法が話題になることも。
そんなネイガウスですらモスクワ音楽院に入学した時のリヒテルに関して、「彼は天才で、教えることは何もなかった。」とコメントしたというのは大変有名な話です。
22歳にしていかに半端ない実力であったかが伺えます。リヒテル本人によると、「ネイガウスからは多くのことを学んだ。」とのことですけれども。
特に演奏のダイナミックさ、という点においては20世紀のピアニストの中でもずば抜けた存在です。180cmを超える身長と12度まで届く手の持ち主だったとも言われています。
プロコフィエフらとの親交
「ピアノ協奏曲第3番」など数々の名曲を残したことで知られる
セルゲイ・プロコフィエフ
ですが、リヒテルとは深い親交があったことで知られています。
彼の代表作「ピアノソナタ第7番《戦争ソナタ》」の初演も任されています。プロコフィエフが自分以外で初演を行なうのはこれが初だったのだとか。また、「ピアノソナタ第9番」もリヒテルに献呈されています。
プロコフィエフもまた政治的な背景によって不遇をかこった音楽家の一人であり、そういった点でも共通していたようです。なんでも「人民の敵」とまで言われていたそうな。
その他にもショスタコーヴィチやロストロポーヴィチといった当時を代表する音楽家たちとの親交があったようです。
とんでもない記憶力
リヒテルはとんでもない記憶力の持ち主であったことが知られていて、本人曰く、なんでも覚えてしまうからかえって辛かったのだとか。
通り過ぎた人の顔を全て覚えている、楽譜を眺めて全て覚えたところで、ようやくピアノでの練習を始めていた、などなどのエピソードも。
一方晩年には、楽譜を見ながらの演奏会を行なうようになっています。ざっくり申し上げますと楽譜は大切なんだ、とのことですが、どうなんでしょう。
記憶力の衰えを隠したかったという可能性も普通にある気はします。
リヒテルもちょっと見栄っ張りなところがあって、例えば本人は「若い頃は3時間くらいしか練習しなかった。」と言っていましたが、のちに奥さんに「10時間以上は練習していたわよ。」と暴露されていたこともありましたからね。
親日家
リヒテルはもともと飛行機がめちゃくちゃ苦手なのもあり、長らく日本に来たことのないピアニストの一人でした、しかしながら、1970年の万博を機に初来日。これ以降日本には度々リサイタルを行なうようになりました。
来日する際にはポンジュースを好んで飲んでいたのだとか。歌舞伎にも興味を持っていたようです。
日本がリヒテルの心を惹きつけた理由としては、今や世界的ピアノメーカーとなったYAMAHAの存在が大きいそうです。
リヒテルはYAMAHAのピアノと出会って以降、日本以外のリサイタルでもYAMAHAがあれば迷うことなくそのピアノを選んでいたそうです。
2015年にはショパン国際コンクールのファイナルで10人中7人がYAMAHAのピアノを選択するなど、快進撃を続けるYAMAHA。
その発展にはリヒテルによる貢献というのも少なからずあったようですね。
多才
リヒテルは音楽以外にも文学やオペラ、絵画などに関しても造詣が深かったようです。
絵画に関しては、自分のアルバムのジャケットに採用されるなど、才能は本物だったようで。
故障でピアノを弾けなくなった時期には天候を真剣で考えたとも言われています。
彼の友人も感受性が豊かだったとは証言していますが、音楽以外にもその才能は生かされていたのですね。
教育者として
リヒテルは若い才能ある音楽家を発掘・支援することにも情熱を注いでいたことが知られています。
彼が育てた音楽家たちの集い「リヒテル・ファミリー」なるものも存在するそうで。
有名どころだとピアニスト兼ピアノ指導者のエリソ・ヴィルサラーぜもその一人に数えられます。
また2005年にはリヒテル・ファミリーによって「スヴャトスラフ・リヒテル国際ピアノコンクール」も開催されるように。
審査員が拍手・ブラヴォーOKだったり、自作の曲も演奏OKだったりとなかなか自由なコンクールだったようで。
リヒテル本人がなかなかの自由人だったので、そこまで意識しているということなのでしょうか。
このコンクール、リヒテルの生誕90年を祝うために第1回が開催されたのですが、生誕100周年となる2015年はというと、開催されず。このまま1回ぽっきりで終わってしまうのでしょうか。
まあ、国際コンクールは経済的な面などで運営に苦労するようですし、仕方ないんでしょうね。
レパートリー
リヒテルのレパートリーといえばベートーヴェンやロマン派の作曲家が中心で、加えてドビュッシーやシマノフスキ、バルトークといった近現代の作曲家、バッハのようなバロック音楽の録音も残しています。
特にシューベルトのソナタに関してはリヒテルが取り上げたことによって再評価されたような節があります。
スヴャトスラフ・リヒテルのおすすめ演奏動画
今はもうライヴで見ることができないリヒテルですが、その不朽の名演を見てみましょう。
練習曲Op.10-4(ショパン)
こちら、ショパンの練習曲でも人気&難易度が高い曲です。
ショパンの指定したテンポをはるかに上回るスピードで演奏しております。ショパン自身は練習曲を極端に早いテンポで演奏することに対して否定的だったようですけれども。
しかし、この曲をこのテンポで弾けるピアニストが果たして世界に何人いるでしょうか。リヒテルの技巧の凄まじさが伺える映像です。
前奏曲集(ドビュッシー)
お次はドビュッシーの傑作の一つである前奏曲集。
全体的に高度な技巧を要するだけでなく、ドビュッシー自身が相当に大きな手の持ち主であったことから10度を超える和音もたくさん出てきます。
もちろんアルペジオや前打音で回避したって全然構わないのですが、リヒテルほど大きな手だとあっさりと掴めてしまいます。
リヒテルというと、並外れた推進力&技巧のイメージが強いですが、その繊細な感受性というのも伝わってくる演奏ではないでしょうか。
ピアノソナタ32番(ベートーヴェン)
こちらベートーヴェン最後のピアノソナタです。
1楽章のいかにもベートーヴェンと言った感じの重厚感、荒々しさというのはまさにリヒテルにうってつけです。それにしても楽器がよく鳴りますね。
うって変わって2楽章ではまるで天国へと誘うような幸福感に包まれたトリルが印象的。この曲のもつ神聖な雰囲気を存分に引き出しています。
スヴャトスラフ・リヒテルのおすすめCD
スタジオ録音は大っ嫌いだったそうですが、なんだかんだライヴ録音をたくさん残してくれたのが、我らがリヒテル。彼を代表する名盤達を紹介します。
ラフマニノフ&チャイコフスキー ピアノ協奏曲
こちら、クラシック界の歴史に残る名盤です。おそらくリヒテルのアルバムの中でも最も有名なCDなのではないかと思われます。
チャイコフスキーのピアノ協奏曲はもともとチャイコフスキーがピアノに関しては素人だったのもあり、非常に弾きにくい箇所も度々登場するのですが、リヒテルには関係なし。
この曲はアルゲリッチの代表曲でもあり、クラシックオタクの間では、カラヤン&リヒテルかアルゲリッチ&アバドのどちらがいいかで議論になることもあったり。
ベートーヴェン
こちら、リヒテルの代表的な録音の一つである、ベートーヴェンの「熱情」が収録されています。
音楽評論家の吉田秀和はこの録音を聴いて、「これはベートーヴェンを超え、何か別のものになってしまった。」と評しています。
もともと激しい曲調が特徴的ですが、このリヒテルの演奏は明らかに他と違うのです。ものすごいエネルギーが漲っているとでも言いましょうか。
平均律クラヴィーア全集
日本の音高生・音大生が多大なエネルギーを割くことになるのがバッハの平均律。
バッハの平均律といえばかのグレン・グールドの録音が大変有名ですが、グールドの演奏は大変個性的でもあります。素晴らしい録音なのですが、好き嫌いが別れやすいのも事実。
それに対してこのリヒテルのアルバムはバッハの「素」を引き出すことに専念しているかのような自然さに包まれています。
宮殿で録音されたこともあり、その絶妙な残響もまた味わい深いです。
バッハのイメージがあまりないリヒテルですが、ただのテクニシャンに止まらない計り知れないポテンシャルを有していることが伺えます。
おわりに

さて今回は20世紀を代表するピアニスト、スヴャトスラフ・リヒテルについてご紹介してきましたが、いかがでしたでしょうか。
彼が亡くなってからもう20年以上も経っていますが、その巨大な才能は今もなお人々に大きな印象を残しています。
もう彼の演奏を生で聴くことは叶いませんが、このブログ記事が彼の足跡を物語る一助となれば幸いです。
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