こんにちは、めーぷるです。
今日はクラシック界が誇る天才マルタ・アルゲリッチについてご紹介します。
そう思われる方もいるかもしれませんが、彼女は長いピアノの歴史の中でもずば抜けた天才タイプです。
半世紀以上にわたって世界最高のピアニストとしての評価を得てきた彼女も、もう80歳目前。
それでも今なお、現在進行形で世界最高のピアニストであり続けています。
そんなマルタ・アルゲリッチの経歴、特徴、おすすめ演奏動画、おすすめCDなどをご紹介していきます。
目次
マルタ・アルゲリッチの経歴
ピアノとの出会い
マルタ・アルゲリッチは1941年6月5日、アルゼンチンのブエノスアイレスで生まれました。
父ファン・マヌエル・アルゲリッチが経済学の教授や会計士をして生計を立てている家庭で比較的裕福な育ちではあったようです。
音楽関連の仕事とは無縁の家系だったみたいですね。
マルタ・アルゲリッチは幼い頃から只者ではないことを感じさせるような子供だったそうです。
保育園でも他の子供達とは違い、とても落ち着いていて、なんでも器用にこなせてしまうタイプの女の子だったそうです。
同じクラスの男の子達はそのことが気に食わなかったようで、ことあるごとにアルゲリッチにできないことはないかと試していた模様。
ピアノを始めたきっかけもまさにそこにあり、ある日「ピアノは流石に弾けないだろう。」と言われていとも簡単に弾きこなし、保育園の先生にその才能を見出されたそうです。
ちなみにこの時2歳8ヶ月です。そんなことって本当にありえるのでしょうか……。
アルゲリッチもこの件をきっかけにピアノのことが好きになり、両親にピアノをねだったようです。
そこで両親は鍵盤のおもちゃをマルタ・アルゲリッチに買い与えたものの、彼女はそんなものには満足できなかったようで、すぐに放り出してしまったのだとか。
そレでも娘の才能を信じていた両親はなんとかお金を貯めて今度は本物のピアノをマルタ・アルゲリッチに買い与えます。
さらに、当時町の中でも有名だったピアノ教師、スカラムッツァに本格的にピアノを習わせることにしました。
鬼教師スカラムッツァ
マルタ・アルゲリッチがピアノを習い始めたスカラムッツァは当時とても有名なピアノ教師であるとともに、大変気難しいタイプだったようです。
ちなみにルーノ・レオナルド・ゲルバー、ダニエル・バレンボイムという他の偉大なピアニストもまたこのスカラムッツァに師事していました。
ピアノを弾くための完全なフォームを生徒に叩き込むため、解剖学の知識を生徒に教えることもしていました。
一方で、生徒の演奏や態度に関して少しでも気に入らないところがあると、体罰なんて当たり前。破門にされることも。
また、前回のレッスンで注意された通りに弾いていったのにも関わらず、「なんでそんな弾き方をしているんだ!」と怒られ、先週とは真逆の指示をすることもあったのだとか。
ただ、アルゲリッチ自身はこの不可解な師の指導に関して、「先生はいろんな選択肢を提示することで生徒に考えさせようとしていたのだと思うわ。」とフォローしています。
アルゲリッチはスカラムッツァにピアノを教わりながら時折コンサートに出演もしており、天才少女として町で有名になっていたようです。
でも最終的には、スカラムッツァから理不尽な怒り方をされ、アルゲリッチはもうレッスンはしないと言われてしまいました。
グルダとの出会い
スカラムッツァから三行半を突きつけられたマルタ・アルゲリッチでしたが、彼女にはその頃憧れの存在がいました。
それがフリードリッヒ・グルダ。アルゲリッチより約10歳年上で、当時はピアニストとして活動していました。

アルゲリッチとグルダが知り合ったきっかけはブエノスアイレスで開かれたグルダのコンサートでした。
このコンサートでグルダはベートーヴェンのピアノ協奏曲第2番を演奏したのですが、アルゲリッチはその演奏にかつてないほどの感動を味わったそうです。
「いつか、自分もグルダのようなピアニストに習うことができたら……。」
そう考えていたアルゲリッチの願いはやがて現実となります。
当時ブエノスアイレスの知事であったサベテという人物はアルゲリッチの大ファンで、彼の紹介で、当時のアルゼンチンの大統領であったファン・ベロン大統領と面会することとなりました。
マルタ・アルゲリッチの父はベロンとは真逆の政治思想の持ち主であったにも関わらず、OKされたのだとか。
ベロンはマルタ・アルゲリッチに対して非常に好意的な態度を示し、彼女に留学してみる気はあるかを尋ねました。
そしてアルゲリッチは答えたのです。「フリードリッヒ・グルダに習いたい!」と。
するとベロンはグルダが拠点を置いているウィーンに家族で引っ越すことができるように、父には外交官、母には大使館職員の仕事を与えました。
そして、1955年から約1年半の間アルゲリッチはグルダのレッスンを受けました。
二人はピアノを通して素晴らしい時間を共にしました。そこには恋人に近いような感情があったとも言われています。
あまりに幸せな時間であった一方、グルダはこのまま自分と居続けることはアルゲリッチの成長を妨げてしまうことになるとも考えるように。彼はアルゲリッチに別の先生に師事してみることを勧めます。
その後、アルゲリッチはジュネーヴでマガロフ、マドレーヌ・リパッティ(ディヌ・リパッティ夫人)、イタリアでミケランジェリ、ブリュッセルでアスケナーゼに師事し、研鑽を積んでいきました。
国際的なピアニストへ
アルゲリッチは1957年、ブゾーニ国際ピアノコンクール、ジュネーブ国際音楽コンクールの女性ピアニスト部門を立て続けに制します。
天才といえども、コンクールを受けるまではアルゲリッチもまだ無名の存在でした。それだけに、その圧倒的な演奏は世界を驚かせることとなりました。
こうしてマルタ・アルゲリッチは紛れもなく世界トップクラスのピアニストであると認められることとなります。
ちなみにアルゲリッチと同世代のピアニスト、マウリツィオ・ポリーニも同年のジュネーブ国際音楽コンクールに出場しており、男性ピアニスト部門で2位を獲得しています。
のちにポリーニも1960年のショパン国際ピアノコンクールで満場一致の優勝を果たしていることを考えると、この年のジュネーブ国際音楽コンクールはなんとも豪華な顔ぶれですね。
そしてポリーニがショパン国際ピアノコンクールで優勝を果たした頃、アルゲリッチはドイツ・グラモフォンからデビュー盤をリリースします。
さらに1963年にはロバート・チェンという中国系スイス人の作曲家と最初の結婚を果たしますが、幸せは長くは続かず。長女リダの出産前に結婚わずか1年で離婚しています。
離婚&出産から間もない1965年にはショパン国際コンクールに出場します。もうすでに世界的ピアニストとして認められていたため、出場する必要はあるのかという声もあったそうです。
そして、ポーランドでも圧倒的な演奏を披露し、見事優勝。
さらにポーランド人の心の象徴とも言われる「マズルカ賞」も合わせて受賞しました。
ロバート・チェンとのドタバタ劇の後でも関係なく優勝してしまうのですから、もうさすがとしか言いようがありませんね。
にしても、アルゲリッチはポリーニが優勝した1960年大会に出場することができたはずですが、もしそうなっていたら一体どうなっていたのでしょうね。
二人の天才がうまい具合に別の年のショパン国際コンクールを受けて優勝したというのは、ある意味奇跡かもしれません。
繰り返される出会いと別れ
ショパン国際コンクールで優勝してしばらくたった1969年、アルゲリッチは指揮者のシャルル・デュトワと結婚します。
翌年の1970年には初来日し、浜松市でコンサートを開くなどしています。
その後、1973年には2度目の来日コンサート、のはずだったのですが、日本行きの飛行機の中で二人の結婚生活に暗雲が立ちこめ始めます。
アルゲリッチはなんとなくデュトワは浮気をしているのではないかと考え始めます。女の勘というやつでしょうか。
彼女の予感は見事当たっていて、アルゲリッチの激しい追求の末、デュトワはついに韓国のヴァイオリニストのチョン・キョンファと浮気していることを認めます。
チョン・キョンファとのラブラブぶりがうかがえる手紙も見つかってしまったのだとか。
この件がきっかけで二人は協議離婚という形での離婚を決意しました。
ちなみに、弁護士を交えた離婚協議の直後、アルゲリッチはデュトワに向かってこう言ったそうです。
「ねえ、シャルリー(彼の愛称)、今から映画を見に行かない?」
つい数分前まで夫だった相手に対してです。わけわかりませんね。
何はともあれ離婚こそしたものの、友人関係はその後も続いていて、二人で共演することもあります。
ちなみにこの後もアルゲリッチはピアニストのスティーヴン・コヴァセヴィチと結婚&離婚、10歳年下のミシェル・ベロフと4年、4歳年下のアレクサンドル・ラビノヴィチと10年、付き合うなどしていたようで。
とにかくモテたみたいですね。
ポゴレリチ事件
アルゲリッチは1965年のショパン国際ピアノコンクールで見事優勝を果たしたというのは先述の通りですが、1980年大会には審査員としてカムバックを果たしています。
そして、ここでショパン国際ピアノコンクールの歴史で間違いなく一番有名な事件、「ポゴレリチ事件」が起こります。
事件の主役となったのが、クロアチアの超個性派のピアニストであるポゴレリチ、そして審査員を務めていたアルゲリッチ。
このポゴレリチというピアニスト、とにかくすごいテクニシャンだったのですが、それと同時に大変型破りな個性の持ち主でもありました。

ショパン国際コンクールの審査基準というのは審査員の個々の価値観に委ねられているのですが、「楽譜に忠実」な演奏をまずは求めるという審査員も少なくありません。
一方、アルゲリッチのように「自分を表現する」ということに重きを置く審査員も一定数います。
この2つの勢力の間でポゴレリチを本選(事実上の決勝)に残すかどうか、議論が割れたのです。
結局ポゴレリチは本選には進めないという結果になったのですが、アルゲリッチはこれに激怒。
「だって彼は天才よ!」
というアルゲリッチの言葉は大変有名です。とはいえ、この言葉が一人歩きしている感も否めません。
アルゲリッチは点数の優劣だけで結果を決めるのではなく、審査員同士の話し合いも取り入れるべきだ、という問題提起がしたかったとのだとか。
言いたいこともわかりますが、どちらかというと話し合いだけで決めるのが不可能に近いからこそスコアを付けている面もあるとは思うので、やはり演奏の評価というのは難しいですね。
何はともあれ、彼の演奏に大変感銘を受けたアルゲリッチはその後もポゴレリチのピンチヒッターとして演奏を務めることもあるなど、以前お気に入りの様子。
ポゴレリチは少し前から、妙に遅いテンポの演奏が多かったりで、事件の後やや迷走している間も否めませんが、アルゲリッチのお墨付きとして頑張ってほしいものです。
ちなみにアルゲリッチは事件の20年後、2000年大会から再び審査員としてショパン国際ピアノコンクールに参加するようになりました。
新たな境地へ
1980年代になるとアルゲリッチはソロの演奏活動はあまり行わなくなり、代わりに室内楽やピアノ協奏曲のソリストとしての活動が中心となります。
室内楽ではヴァイオリニストのギドン・クレーメル、イヴリー・ギトリス、チェリストのロストロポーヴィチ、マイスキーなど伝説級の音楽家との共演も果たしています。
本人曰く、「ソロの演奏は一人で心細い。」のだとか。仲間と一緒に演奏しているほうが音楽を楽しめるそうです。
また、ここ30年ほどは後進の才能発掘ならびに支援に関しても非常に積極的で、
- マルタ・アルゲリッチ国際ピアノコンクール@ブエノスアイレス
- マルタ・アルゲリッチ音楽祭@ブエノスアイレス
- マルタ・アルゲリッチ・プロジェクト@ルガーノ
- 別府アルゲリッチ音楽祭
など、自身の名前を関した音楽イベントを積極的に行なっています。
大分県別府市とは特別な繋がりがあるようで、1998年以降は毎年、別府アルゲリッチ音楽祭のために来日しています。
別府温泉に毎年通っているからこそ、80歳目前でもあんなに肌が綺麗なのかもしれませんね。
アルゲリッチは世界のことを「日本とそれ以外」と言うほど、日本のことを愛しているようです。
日本人の遠慮や距離感といったものが、アルゲリッチにとっては自分を自由にさせてくれて心地よいのだとか。
自由奔放そうに見えるアルゲリッチですが、人間関係に関してはこじれないようにあれこれ考えてしまうタイプだそうで。
そんな彼女にとって、いい意味で「放っておいておいてくれる」国が日本なんだそうです。
本当に日本がお好きなようで、決してリップサービスではなさそうです。
マルタ・アルゲリッチの特徴

マルタ・アルゲリッチの特徴についてさらに掘り下げていきましょう。
天性のテクニック
マルタ・アルゲリッチは現在もなお卓越したテクニシャンです。
とにかく指が回ること回ること。正確無比で速い連打、そしてお家芸である高速オクターブ。
同世代の技巧派ピアニストであるマウリツィオ・ポリーニとはまた違った方向性のテクニシャンだと言えます。
アルゲリッチの歴代の元カレたちは皆、アルゲリッチはあまり練習をしないタイプであると証言しています。
もちろん全く練習していないということはさすがに無いかと思いますが、努力せずとも弾けてしまう、天性のものを持っているようです。
何と言っても、全体的にテンポが速いのが特徴です。本人曰く、「放っておいたらどんどん速くなってしまう。」のだとか。自由奔放な彼女らしいですね。
過去に共演した指揮者も「彼女は速く弾こうとしている訳では無い。速く弾けてしまうんだ。」とコメントしています。
演奏を見ていてもそもそも運動神経が半端なく良いんだろうなあ。とわかるはずです。
タッチも女性ピアニストとは思えないほどの力強さ。かといって決して鍵盤を乱暴に叩くような弾き方でもありません。
同世代のピアニスト、マウリツィオ・ポリーニは技術面での衰えを隠せなくなってきた一方、アルゲリッチはまだまだ衰えというのを微塵も感じさせません。
半端ない記憶力
アルゲリッチは記憶力が半端ないことで知られています。
恋人が読み聞かせた小説の2ページを一回聞いただけで暗唱してしまったり、ラヴェルの難曲「夜のガスパール」をわずか3日で完成させてしまったり……。数多くの伝説を作っています。
また少なくとも6ヶ国語を話すことができるとも言われています。
本当の天才たるや、恐るべし。
一番好きな作曲家
ショパン国際ピアノコンクールで優勝し、ショパンの曲を数多く演奏しているため、アルゲリッチはやはりショパンが一番好きなのではないかと思いますよね。
ところが本人は「一番好きな作曲家はベートーヴェンよ。」とあるインタビューで答えています。
なんだか意外ですね。というのも、アルゲリッチはベートーヴェンのピアノ協奏曲こそ1番、2番、3番、5番と録音が豊富ですが、ピアノソナタに関しては録音が残っているのは7番のみ。
演奏会では他にピアノソナタ21番「ワルトシュタイン」や26番「告別」を演奏していたようですが、それでもやはり少ないですよね。
ベートーヴェンへのリスペクトがあるからこそ、逆においそれと人前で演奏する訳にはいかないと考えているのではないかと思ったり。
また、ドビュッシーも好きな作曲家として本人が挙げています。これまた録音が少ない作曲家なのですが……。
逆に好んで演奏しているように見えるラヴェルに関しては、
「私がラヴェルを好きなのではなく、ラヴェルが私のことを好きなのよ。」
とコメントしています。要するに好きなんでしょう。
レパートリー
おそらく一番豊富に録音が残っている作曲家はショパンですが、他にもモーツァルト、バッハ、ベートーヴェン、シューマン、ラヴェル、ドビュッシー、ブラームスなど幅広く録音を残しています。
強いていうならばピアノ協奏曲第3番を除くとラフマニノフが見当たらない、といった程度でしょうか。
また、アルゲリッチは室内楽に対しても積極的な姿勢を見せており、偉大なヴァイオリニストのクレーメル、チェリストのマイスキーなど名だたる音楽家との室内楽曲の録音も残しています。
マルタ・アルゲリッチのおすすめ演奏動画

ピアノ協奏曲第1番(チャイコフスキー)
https://www.youtube.com/watch?v=vKrpgvkIX-0&t=854s
アルゲリッチはピアノ協奏曲のレパートリーも相当広いのですが、中でももっとも有名なのが、このチャイコフスキーのコンチェルトでしょう。
この協奏曲はアルゲリッチお得意のオクターヴによるパッセージもふんだんに用いられており、彼女のヴィルトゥオーソぶりを堪能することができます。
この曲に関しては、彼女を上回る演奏はいまだに現れていないかと思います。
「夜のガスパール」より「スカルボ」
世界一難しい曲と言われることもある「スカルボ」。にも関わらず、鮮やかな演奏でしょう。
世のピアニスト達が必死の形相で弾いている曲だというのに、彼女はなんとも涼しい顔で演奏しています。
軽いモーションながらも鋭い音を出すことができるのは彼女らしいですね。
マルタ・アルゲリッチのおすすめCD

ラヴェル:「夜のガスパール」
このCDにはラヴェルの「夜のガスパール」、「ソナチネ」、「優雅で感傷的なワルツ」が収録されています。
ラヴェルといえばドビュッシーと同時代を生きた印象派の作曲家ですが、ドビュッシーより古典的な様式を重視した作風が特徴です。
アルゲリッチはショパンのイメージも強いですが、基礎的な技術が恐ろしく高いので実は古典の時代の曲が一番合っているんじゃないかと個人的には思ったり。
それゆえ、ラヴェルも見事にはまっている印象です。
ベートーヴェン:ヴァイオリンソナタ全集
こちらヴァイオリンの巨匠クレーメルとの共演です。
特に5番の「春」に関しては漫画「のだめカンタービレ」で有名になったので、耳慣れたメロディーなのではないでしょうか。
ピアノはあくまでヴァイオリンの伴奏という位置付けではありますが、粒もよく揃っていて、ここぞというところで隠れた旋律を浮かび上がらせるなどの芸当はさすがです。
アルゲリッチ自身、ソロでの活動よりも室内楽やオーケストラとの共演の方がリラックスできると語っていますが、このアルバムを聞いてると確かになるほど、と思わせるところが随所にあります。
おわりに

さて、今回はクラシック音楽界のスター、マルタ・アルゲリッチについて見てきましたが、いかがでしたでしょうか。
今までも「アルゲリッチ2世」と呼ばれるような女性ピアニストは何人も出てきましたが、いまだ本家を超えるようなスケールの持ち主は現れていません。
年齢による衰えを全く感じさせない彼女のこれからの活躍にも期待したいですね。
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